2008年04月28日
【第四回】パラリンピックを目指したきっかけ②

先週に引き続き、「パラリンピックを本気で目指したきっかけ」をお話しします。

先週は、3つの大きな出来事のうちの、一つ目の「ホップ」、地元北海道・室蘭市での結婚披露パーティーでの出来事をお話ししました。

今回は二つ目の「ステップ」、
藤田俊哉選手(現名古屋グランパスエイト)の結婚式での出来事です。

藤田俊哉選手(以下、俊哉)との付き合いは、日本ユース代表(U-20)時代からになります。
でも、正確に言うと、小学校4年生からかもしれませんね。

俊哉は静岡県清水市(現静岡市)、私は北海道室蘭市の出身です。
それがなぜ?と思いますよね??実は、清水市と室蘭市は姉妹都市だったのです。

小学校4年生の時、室蘭市・清水市のスポーツ文化交流会で俊哉が清水市選抜、私が室蘭市選抜で対戦したのが最初の出会いです。
その後も何度か対戦して、東の京谷、西の藤田と言われていた?こともあるくらい、ライバルとして意識していた存在です。

その俊哉の結婚式に行った時のこと。。。

式場には、中山選手に名波選手、名良橋選手など、フランスワールドカップの出場メンバーや現役Jリーガーがたくさん来ていました。
私は日本ユース代表当時のメンバーと同じ席に座っていたのです。

そのメンバーたちと昔の話しをして、すごく盛り上がっていた時、誰かがフランスワールドカップの話しをしたのです。
その途端、日本代表のメンバーは誰が良いだとか、戦術はどうだとかという、話しに変わって行きました。

サッカーから離れていた私は、全く話しについて行けなくなり、自分ひとりがぽつんと取り残されたような感じになってしまったのです。
「今の自分には何も無い、こいつらと同じ土俵に立てていない」・・・。

でも、そう思ったのは一瞬でした。
次の瞬間には、
「今はこいつらと肩並べて話す事ができないかもしれない。でも、今目指しているパラリンピックに日本代表として出場することができれば、こいつらと肩並べて話すことができるんじゃないか?競技が違っても、日の丸を背負うということは同じなはずだ!」と思ったのです。

この時はまだ、「元Jリーガー」という過去の栄光に浸っていた自分がいました。

でも、みんなは現状(Jリーガー)に満足することなく、さらに上のレベル(世界)を目指してやっている。
そんなみんなを見ていて、自分も「負けていられない、みんなに認めてもらいたい」と思ったのです。

そして、車椅子バスケットボール日本代表の「京谷和幸」として、いつかみんなで酒でも飲みながら話しがしたいと思ったのです。

こんな気持ちになれたのは、日本ユース代表として一緒に戦ったメンバーの活躍が、自分にとってすごく刺激になったからでしょうね。
あとは、根っからの「負けず嫌い」というのもあると思いますが・・・(笑)

いずれにしても、この俊哉の結婚式で、日本代表(日の丸)への思いがより一層強くなり、パラリンピックという目標に向かって行く自分をさらに後押ししてくれたのでした。

現在も名古屋グランパスエイトで活躍する俊哉に刺激を受けながら、私も現役プレーヤーとして顔晴っています。

パラリンピックを本気で目指したきっかけの、「ホップ」「ステップ」までお話ししました。
次回は最後、三つ目の出来事「ジャンプ」についてお話しようと思います。

それでは、また来週、お楽しみに~~!!!
  

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2008年04月21日
【第三回】パラリンピックを目指したきっかけ①

今回は、「パラリンピックを本気で目指したきっかけ」をお話ししたいと思います。

「パラリンピックを目指す=車椅子バスケットボールを本気で全力で取り組む」

当たり前のことなのですが、当時の自分には、そんな気持ちは正直ありませんでした。

車椅子バスケットボールを「所詮、障害者のスポーツだろ!?」などと軽視していたし、
何より、プロサッカー選手だったという「プライド」が邪魔をしていたのだと思います。
今考えると、本当、変なプライドですけどねぇ。

そんな私が、なぜ本気になって車椅子バスケットボールに取り組み、パラリンピックを目指したか。。
それは、3つの大きな出来事があったからなのです。

一つ目「ホップ」は、
地元、北海道・室蘭市での結婚披露パーティーでの出来事。

事故後、元気な姿を地元の恩師や仲間たちに見せたいと思い、
友人にお願いして、結婚披露パーティーを開いてもらったのです。

ほとんどがサッカー関係者で、それぞれの座席を回って話しをするたびに、
「いや、本当に残念だ~」とか「俺たち、期待していたのに。。」ということを言われました。。

正直、辛かったです。
みんな、サッカー時代の自分しか知らないから、当然と言えば当然なのですが・・・
どのテーブルに行っても、そのようなことを言われるので、だんだん腹が立ってきました。

サッカー時代の自分しか、みんなは見てくれていない。。。

そこで、最後のお礼のスピーチの時、私は、みんなの前でこう言いました。

「本日はお忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございました。
みなさんの温かい笑顔、温かいお言葉をいただき、これから、すごく顔晴るって言う気持ちになれました。これから、バスケットの方を顔晴って、アトランタは多分無理だと思うので、次のオリンピックくらい目指して顔晴っていくので、応援よろしくお願いします。」と。。。(ほぼ同じ内容です)

この年は、アトランタオリンピックの年。
まだ、本格的に車椅子バスケットボールを始めていない自分には、アトランタは無理でした。
しかも、次のオリンピックの開催地もパラリンピックという言葉も知らずに、「次のオリンピックくらい目指して・・・」。
周りから見たら、「何、寝言言っているんだ!」なんて思われていたかもしれませんね。

でも、これからの自分、新しい自分を見てほしかったし、何より、自分自身がもう一度、サッカー時代のように輝きたかったのです。
それと同時に、この場にいるみんなに「認めてもらいたい」「恩返しがしたい」と思いが湧き上がってきたのです。

このパーティーをきっかけに、自分の競技用車椅子(バスケ車)を購入して、少しずつ「パラリンピック出場」という夢に向けて動きだしました。
夢に向かって動き出したので、「目標」ですね!

余談ですが、競技用の車椅子は、30万円~40万円するのです。
「はい、わかりました」と言って、すぐに買える代物でもない。
それでも妻は、「買ってあげるけど、どうせやるなら、目標を高く持ってやってね!」と言ってくれました。
「目標は高く・・・」。
この言葉も少なからず、パラリンピックを目指すきっかけになったのだと思います。

実は、「次のオリンピック目指します!」といった後、すでにみんなが喜ぶ姿を、私はイメージしていたのです。

地元、室蘭での結婚披露パーティー。
これがなければ、車椅子バスケットボールでパラリンピックなど、目指すことはなかったでしょう。

パラリンピックを本気で目指した、二つ目の出来事(ステップ)は、次週、お話しします。

お楽しみに!!!  

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2008年04月14日
【第二回】車椅子バスケットボールとは

今回は、車椅子バスケットボールについてお話します。

【車椅子バスケットボールの歴史】
多くの障害者を生んだ第二次世界大戦後、米英両国で車椅子スポーツが生まれた。バスケットボール発祥の地アメリカでは車椅子バスケットボールが障害者自らの手で情熱を傾ける対象として急速に普及発展し、1949年には全米車椅子バスケットボール協会が設立された。
一方、英国ではストークマンデビル病院のグットマン博士により脊髄損傷者の治療法のひとつとして車椅子ポロやネットボール(バスケットボールの元となったスポーツ)が導入された。
この2つの流れは1950年代後半にひとつとなり、車椅子バスケットボールは競技スポーツとして世界中で盛んになっていった。
車椅子も当初は日常使用のものが用いられていたが、だんだんに競技用のものが工夫され、それにより現在はハイレベルな競技が行われている。

【日本の車椅子バスケットボールの歴史】
日本での同競技の歴史は、1960年に厚生省の派遣でストークマンデビル病院国立脊髄損傷センターに於いてスポーツ・リハビリテーションを学んだ国立別府病院の中村裕博士によって、大分県の国立別府病院で紹介されたのが最初であった。
1961年に同博士の尽力で開催された第1回大分県身体障害者体育大会で車椅子バスケットボールのデモンストレーションが行われた。1963年は第18回国民体育大会(山口県)後の身体障害者体育大会・山口大会でもデモンストレーション試合が行われた。
全国への普及は、1964年に開催された第2回パラリンピック東京大会(the tokyo games for the physically handicapped:paralympic)が契機となり、同競技に参加した選手や関係者によって精力的になされた。
日本での車椅子バスケットボールの歴史は、昭和35年(1960年)ごろ、大分県の国立別府病院や神奈川県の国立箱根療養所などで車椅子バスケットボールが紹介されたのが最初であった。

【車椅子バスケットボールのルール】
車椅子バスケットボールのルールは、車椅子でプレイするために改めた点以外は、コートの大きさ、ゴールの高さ、ボールの大きさ等、すべて一般のバスケットボールと同じです。

車椅子バスケットボールのルール説明はこちらから
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
    http://www.jwbf.gr.jp/rule/rule.htm

【クラス分け】
車椅子バスケットボールの選手には各々障害レベルの重い者の順から1.0~4.5の持ち点が定められており、試合中コート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えてはなりません。
このクラス分けの目的は、障害の重い選手も軽い選手も等しく試合に出場するチャンスを与えるためです。仮にこのクラス分け制度がなかったとすると、障害の軽い選手だけでチームを組むことが可能となり、障害の重い選手の出場機会を奪ってしまうことになります。
クラス分けは車椅子駆動、ドリブル、パス、ボールコントロール、シュート、リバウンドなどの動作はもとより、車椅子座位における体幹のバランス能力とボールコントロール範囲に応じて分類されます。このように車椅子バスケットボールでは、それぞれのチーム間の公平性も保っています。

1.0
腹筋・背筋の機能が無く座位バランスがとれない為、背もたれから離れたプレイはできません。体幹の保持やバランスを崩して元の位置に戻す時、上肢(手)を使います。脊髄損傷では第7胸髄損傷以上の選手で、基本的に体幹を回旋する事ができません。
2.0
腹筋・背筋の機能がある程度残存している為、前傾姿勢がとれます。体幹を回旋する事ができる為、ボールを受けたりパスしたりする方向に体幹の上部を向けることができます。脊髄損傷では第10胸髄から第1腰髄損傷までの選手ですが、残存能力には個人差があります。
3.0
下肢にわずかな筋力の残存があり、足を閉じることができます。
骨盤固定が可能となるため深い前傾から手を使わずにすばやく上体を起こすことができます。第2腰髄から第4腰髄損傷の選手及び両大腿切断者で断端長が2分の1以下の選手です。
4.0
股関節の外転を使って、少なくとも片側への体幹の側屈運動ができます。
第5腰髄以下の選手及び両大腿切断で断端長が3分の2以上の選手、また片大腿切断で断端長が3分の2以下の選手です。
4.5
片大腿切断で断端長が3分の2以上の選手や、ごく軽度の下肢障害を持つ選手です。どんな状況であっても両側への体幹の側屈運動が可能です。

0.5ポイントはそれぞれのクラスで上位の運動機能を有する選手に対しプラスされます。
いずれのクラスでも残存能力には個人差があり、また不全麻痺等のプレイヤーも含まれる為、一概に損傷部位で持ち点を決定するのではなく、車椅子バスケットボールの基本的なプレイの能力が判定の主たるポイントとなります。

ここまでは、日本車椅子バスケットボール連盟のHPより抜粋させていただきました。


どうですか?車椅子バスケットボールについて、なんとなくわかっていただけましたでしょうか?

車椅子バスケットボールは、障害者スポーツの中でも「花形スポーツ」と言われています。
アテネパラリンピックでは、車椅子バスケットボール男子の決勝戦が、大会最終日の最終種目になるくらいですからね。

日本国内でも、漫画「リアル」の影響で年々関心が高まり、障害者だけではなく、健常者のプレイヤーも増えてきています。また、健常者のプレイヤーが参加できる大会も開催されていて、障害者、健常者、みんなが楽しめる「スポーツ」へと変わりつつあります。

大学生たちの手によって作られた、「日本車椅子バスケットボール大学連盟(GBP)
その他にも多くの健常者チームが存在します。

そんな、車椅子バスケットボールの日本最高峰の大会「第37回日本車椅子バスケットボール選手権大会」が、5月2日(木)~5月4日(金)にかけて東京体育館で行われます。

地区予選を勝ち抜いてきた、20チームが「日本一」の座をかけて戦います。※入場は無料です

言葉よりも、まずは会場に来て、試合を観てください!!
絶対に損はさせませんから!!!(笑)

最後に、自分にとっての車椅子バスケットボールとは、、、
「今、一番情熱を持って打ち込める、最大、最強、最高のスポーツ!」です。

第一回ではパラリンピック、第二回では車椅子バスケットボールの説明をさせていただきましたが、
次回からは、私の「思い」を中心に書き綴っていきたいと思います。

お楽しみに!!!!!!!!!!!  

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